不登校

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コラム

不登校

2020/03/10

不登校

なぜ学校へ行かなくてはならないか?

勉強はなんのため?

嫌なことから人は学ぶ

検索キーワードから「リフレクソロジー」を外すことにしました。

このブログ、このサイトは、リフレクソロジーを求める人ではなく、今困っている方、ただただ困って苦しんでいる方々の希望やヒントになりたいからです。

 

それは一言でいうと、「自分が悪い」「自分が間違っていた」と気づくことにあります。

誰もがうまくいっていないことなら人は悩みません。

自分にだけ起こった悲劇、災難、失敗に人は落胆し悩みます。

しかしそこから立ち上がるか、卑屈になって墜ちていくかの分かれ目はそれが、自分が悪かったと自覚するか、運や体質、親の育て方、あるいは誰かのせいとするかによるのだと思います。

 

予防も同じで、新型ウイルス肺炎が、その微生物に感染したからとか、ウツした人のセイと考えるなら、いつまでたっても、どこで何をしていても決して不安が解消することはなく、公共の公園で地元の子供たちが遊んでいることにさえ苦情を申したてる人がいるといいます。

 

しかし感染するかしないかは受け取る側の問題と解かれば、新型でも旧型でもあるいは花粉でも怖がって避けるより、すべきことは違ってきますね。

自然界にある原因物質は決して絶つことはできないが、それに接触していても発病しない人、もしくはごく軽症ですむ人がいるならばそれは防御体制の違いであるはずなのです。

 

これはアレルギーや病気にも言えます。

朝ドラ「スカーレット」の武志君が白血病と診断され、主人公は「なんも悪いことしてへんのに!!」と言って泣きじゃくります。

難病を告げられた人や家族がよく言うこのセリフです。

 

「悪い事」は確かに何もしていないだろうけれど、何か原因となることは本人の生活にあるのです。

確かに、染色体の異常があることが診断の決め手になったり、遺伝的な体質は関係があるとしても、それが「根本原因」ではありません。だって、

その染色体があっても発病しない人も、なくても発病する人もいるのですから、染色体や遺伝した体質だけのセイにはできませんよね。重要なのは「ピストルを持っているかいないかではなく、その引き金を引くか引かないか」なわけです。

 

しかし、原因を本人ではなく「外部」と考えてそれを死滅させることが現代医学の「治療」です。決して本人に責任があるとは考えないため、「今まで通り」の生活でよいと伝え、「薬」と呼ぶ化学物質を飲ませます。

症状を抑える「物質」なのでしょうが、それがまるで病気の進行を抑えると勘違いさせる「薬」と言って渡すのはいかがなものかと思います。病気の原因がわからないまま症状を抑えるのは、食あたりの下痢や嘔吐を止めるようなものです。。

 

さて、今日のタイトルの内容が最後になってしまいました。

お子さんの不登校で困っている皆様、原因は間違いなくご自分にあるとまず認識することから考えていきましょう。

「ご自分」とは、不登校している本人が悩んでいる場合はもちろんご自身のことですが

お子さんのことで困っている方は「親御さんご自身」が「本人」となります。

つまり「育て方」や見せてきた親御さんたちの態度が影響しているのではないかと考えなくてはならないのです。そう考えなければ何も解決しません。

「完璧な子育てをやった」と言える人はいないと思いますから、決して恥ずかしいことではありません。

 

不登校に限らず、二十歳くらいまでの子供さんの問題はほぼ「親」に責任があります。

その方々なりに一生懸命に社会的モラルやしつけ、教育、栄養、衛生的な環境を与えてきたと思います。

しかし!お子さん自身が求める何か大切なもの、そのお子さんが求めてやまない「何か」を与えられずにいると思います。

手作りの料理をしてあげていますか?そのお料理はお子さんの身体にはあっているか身体の反応を確かめながら与えていたでしょうか?

一緒に遊んだり勉強に付き添ってあげていましたか?その遊びや習い事はお子さんが求めていることだったでしょうか?興味や気持ちに耳を傾け聴いてあげていましたか?

もしかしたら親を喜ばせることしか言わせていなかったということはないでしょうか?

スポーツや勉強をしている姿より結果だけを見ていませんでしたか?など、、

 

私たちは「自分が親にもっとこうしてほしかった」と思うことに重点をおいてしまいがちで、実際の我が子が求め喜んでいることかどうかが見えていないことがあります。

子供の求めることを純粋にキャッチしてあげるには、自分だったらと考えず、まったく別の人格の彼らにゼロから向き合い、話を聴かなければわからないのです。

もしお子さんが不登校や勉強嫌い、何か学校生活で問題を起こしているとすれば、まず間違いなく、親が何かを怠っています。

親の愛情が欠けた状態で子供は「勉強」や「社会性」を学ぶ段階に進めないのです。

 

私自身がそうだったのですが、子供を無理やり登校や勉強させることに疲れてくると、「そもそも学校って絶対に必要か?」「何のためにこれらの勉強をしなくちゃならないのだろう?」と、義務教育自体に疑問を感じるようになります。

 

そして別の居場所だったり、勉強にもいろいろあるじゃないか!と考えてみたりします。好きなこと、夢中になれるものは必ずしも学校にあるわけじゃないのでは?とか・・

 

しかし、今もしその渦中にいる方がこれを読んでくださっているとしたら、まずはそのようには考えてほしくありません。

 

学校が嫌いで他の場所でなら勉強できるとか、教科の勉強は嫌いだが別の事なら夢中で学ぶとか、それならそれでよいのかもしれないけれど、そんな子は滅多にいません。

 

通常は学校の勉強がいやなら、他でそれを補うほどの勉強ができるはずがありません。

 

私は「学校」とは、嫌なことも経験し、苦手な勉強にも取り組む場所だったのではないかと思います。

 

嫌なことを経験するからこそ、嫌でないことの貴重さ、有難さがわかり、

苦手なこともやってきかたからこそ、それを認識したりどうにかやりきる術を身につけ、人と協力することの必要などを学べるのです。

 

嫌な思いやそれを頑張って乗り越える経験をしていないと、必ず社会に出てそれにぶつかり挫折します。逃げたくなります。

大人になってから人に負担を強いる形で克服してゆかなければなりません。

 

嫌いも苦手もまだわからないうちに、みんながやるからやってみる、むずかしかったけど頑張った、そんな体験を広くたくさんし、受験や成績のために意味も分からず暗記してきたことが、大人になったときふと役に立つことに、息子はとっくに成人した今頃になって気づきはじめています。